閑話休題

gifted(IQ135以上)による雑記ブログです。日々考えている問題や対象について書きだしています。

批判が悪という風潮について

 「悪口や批判はブロックしてしまえばいい」

 

 最近、若者を中心に支持を得ているこの主張だが、私は危険な風潮だと感じている。個人に対する批評が以上に忌避され、排除された結果、人々が他者の言動を執拗に監視し、双方が抑圧しあうディストピア的色合いを見せる近未来を想像することは難くない。

 

 と、言うが、私自身この主張が間違っていると非難しているわけではない。悪意ある言論によって他者を傷つけること、もしくは他者を傷つけるための言論が許されるわけではないからだ。私が指摘したいのは、自分と他者とのコミュニケーションに「悪意」が介在しているかどうかは、自己判断によって独善的に決めることができるという前提を受け手(主張に共感した人々)が無批判に受け入れているという点が非常に怖いものであるということだ。つまり、これらを”信仰”する人々は深く考えずに自分の感情の匙加減だけで物事を決めかねないということだ。

 

 これらの問題の根底は、「批判」と「中傷」の区別がついていない人々が非常に多い現代日本の背景にあると私は考える。

 以下のイラストはのぼぼんさんによる批判と中傷の違いであるが、ここにもあるように、批判と中傷の決定的な違いは、「根拠」の有無と相手との「対話」の有無だ。

 

 

 ただ根拠があるからといって相手と対話せずに貶す目的の意見は周囲の同意を得られないし、対話を重視するあまり無批判に相手を受け入れるだけでは「馴れ合い」に終始し価値観を共有した狭いコミュニティに満足してしまう。もちろん、馴れ合いを楽しむのが目的なら内輪ネタで盛り上がることは悪いことではない。しかしながら、”インフルエンサー”と呼ばれる自らの発信に一定の影響力を持った「発信者」が、自分たちに都合のいい概念や思想が”一番”だと信じ、それを啓蒙、啓発することを自己正当化する行為が批判の対象にならないと結論付けるのはいささか軽率すぎると言わざるを得ない。要するに、異なる価値観を持った人々の存在を仮定せずに、自分たちの正義を押し付けすぎている行為は批判されてしかるべきだろう。中傷行為を批判するために自分自身が中傷行為をしているのは問題外だ。

  

 話は逸れるが、正義とは後付けで生じる価値観であり、しかもしばしば多義的な性質を有したものである。ある考え方が誰から見て、どの視点からみて正しいかというのは変わってくるものである。読者を軽視して、自分たち発信者の都合だけを押し付けるようでは長期的な支持を得ることは難しいだろう。

 

 一方で、受け手側の反応が必ずしも適切なものとは言えないだろう。つまるところ、インフルエンサーにもその読者側にも、日本の若者に足りない力は、内田樹氏の言うところの「自分と価値観も行動規範も違う他者と対面したときに、敬意と好奇心をもって接し、困難なコミュニケーションを立ち上げる意欲と能力」であろう。そのための文化的流通として、先人たちは批判という行為を遺したのだと私は考える。

 

批判や批評自体は社会や人々の文化的価値を高めあう有意義な行為だ。彼らも言うように、人を貶す目的で安易に言葉を利用するのではなく、人と文化的交流をするための手段として批評などを利用する必要がある。